偶像崇拝?キリスト像やマリア像はありなのか
カトリックの教会に行くとキリスト像やマリア像があります。
コルコバードのキリスト像などは有名ですね。
さて、しかし聖書を見てみると偶像崇拝・偶像礼拝を神様は禁じています。
:04)あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
有名なモーセの十戒の二つ目の戒めがまさに偶像崇拝をしてはいけないということでした。
キリスト教の歴史的な背景を見てみると、プロテスタントの教会は偶像崇拝を完全に撤廃するためにそのような像を廃してきました。
ではキリスト像やマリア像が教会にあるカトリックの教会は聖書に反しているのでしょうか。
決してそうではありません。
私たちの教会の牧師先生はこう教えてくださいました。
『像は象徴です。その本体を考えるために象徴としての像があるのです。新約聖書でイエス・キリストは「私を見たものは神を見たのだ」とおっしゃった。イエス・キリストという象徴を見ることで、その本体である神を見なさいということでした。象徴を見て、本体を考えるのです。もし本体を考えなければそれは偶像になってしまいます。』
私はなるほど、と思いました。
像自体を拝んだら偶像崇拝になってしまうけれども、その像を見ることでその本体であるイエス・キリストを考えるならば偶像崇拝にはならないということなのです。
十字架もそれを見てキリストが私たちのために背負われた苦痛を思い、その愛を考えないならば、ただの偶像になってしまうでしょう。
いつもキリストの愛を忘れずに。
筋肉も日本の宗教出身で、キリスト教も偶像作ってるじゃんかと思ってたけど、解けた思いありましたー。
聖句で、
伝道の書12:11 「知者の言葉は突き棒のようであり、またよく打った釘のようなものであって、ひとりの牧者から出た言葉が集められたものである。 」
偶像ではなく先に神様がいることを教えてもらい、視点の低かった筋肉に衝撃が走った事を憶えてます。
筋肉も自分の筋肉を愛しすぎたら偶像になっちゃうから気をつけないと!
私も解けましたー
なるほどー
形ではなく、心が大切。
神様の御言葉はいつ聴いてもスゴイなー
深いです!
考え方次第ですね☆
私も子供の頃から教会に通ってましたが、みんなが写真持ってたり、物を持ってるのにとても不思議に思いました(笑)
その本体を考えなければ、偶像になるのですね。
本体を見るために象徴を立ててくださったのですね。
根本を見失わないように考えをしっかり持たないとと思いました!
「本体という<核>を失ったら、すべて奪われたことだ」
悟ります(>人<;)
見る人の心で天と地のような差が生まれる結果になるのですね
長年の謎が解けました。