[キリストの生き方]祈りの習慣化と感謝の祈り
聖書の話〜キリスト教福音宣教会〜へお越しいただき、ありがとうございます。
とある牧師の方からこのようなお話を聞く機会がありました。
とても感銘を受けたので、こちらのブログにも記したいと思います。
祈りに関して。
聖書を読んでみると、イエス・キリストは時間さえできればオリブ山で祈っていたのが分かります。
良い意味での習慣になっていたのです。
私たちもそのように常に祈りを忘れない生き方をしましょう。
そして、「こうしてください」「ああしてください」という祈りよりも、『感謝』を忘れてはいけない。
またイエス・キリストのゲツセマネの祈りのように、「自分の思いではなく、主の御心通りにしてください」という祈りが大切です。
その中にすべてが入っています。
ゲツセマネの祈りとはイエス・キリストが十字架に架けられる前に、オリーブ山の麓のゲツセマネの園で切実に祈られた祈りのことです。
:36)それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。
:37)そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。
:38)そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。
:39)そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。
:40)それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。
:41)誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。
:42)また二度目に行って、祈って言われた、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。
:43)またきてごらんになると、彼らはまた眠っていた。その目が重くなっていたのである。
:44)それで彼らをそのままにして、また行って、三度目に同じ言葉で祈られた。
:45)それから弟子たちの所に帰ってきて、言われた、「まだ眠っているのか、休んでいるのか。見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。
:46)立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」。
参考までにお伺いさせて頂きます。
クリスチャンである私は、常識の範囲内で、お酒を飲む事をよし、としてます。
貴方様は、どのような見解を持ってますか?
お酒を嗜むのは個人の自由ですから私が他の方の飲酒に対して意見するのはおこがましいと考えています。
他人様に迷惑をかけないのは大前提としてあるとは思いますが。