感謝の生、義人の生
聖書を感謝という切り口で二分してみると、感謝する生を生きた人と感謝しない生を生きた人がいました。
ダビデは感謝の生を生きた人の代表的な人物だと言えると思います。
ダビデは詩篇の中でこのような詩を残しています。
:0) 感謝の供え物のための歌
:01) 全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。
:02) 喜びをもって主に仕えよ。歌いつつ、そのみ前にきたれ。
:03) 主こそ神であることを知れ。われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である。
:04) 感謝しつつ、その門に入り、ほめたたえつつ、その大庭に入れ。主に感謝し、そのみ名をほめまつれ。
:05) 主は恵みふかく、そのいつくしみはかぎりなく、そのまことはよろず代に及ぶからである。
ダビデはなんとも文学的で宗教的な表現で神様への感謝を詩篇で歌っています。
ダビデは平安な日々を生きたから神様に感謝したのではありませんでした。サムエル記を読んでみると分かりますがダビデはサウルに命を狙われて追われて生きていました。
そのような中でも感謝して生きました。
創世記でヨセフも神様に感謝をして生きました。
ヨセフが良い暮らしをしたから感謝したのではありませんでした。
冤罪(強姦の濡れ衣)によって獄に入れられました。到底感謝することができないような状況です。
しかし、ヨセフもまたそのような中で感謝を捧げました。
感謝する生こそがまさに義人の生だと言えるのではないでしょうか。
私の尊敬する牧師先生は感謝する生についてこのようにおっしゃいました。
何かあるから(何かもらえるとか何かしてもらえる)と言って感謝してはいけません。
私たちは神様の愛の懐で生きています。
幼子が母親の懐に抱かれて生きているように、私たちも同じです。
子供は母親に感謝するしかないように、私たちも神様に対して感謝するしかないのです。
出エジプトの時、シンの荒野でイスラエルの民族は感謝を忘れました。
そのうち不平・不満を言うようになりました。
そして不平・不満はモーセや神様に対する悪口・悪評に変わりました。
感謝しないと人は不平・不満を言うようになります。
そして、不平・不満はそのうち悪口・悪評を言うようになります。
感謝せず、悪口・悪評を言ったイスラエルの民族がその後どうなったでしょうか。
聖書の歴史的教訓からも明らかなように、必ず感謝を忘れてはいけません。
感謝しなければ救いの道を最後まで行くことができません。
いつも感激して喜ぶ時、希望の道が拓かれます。
感謝に関してはこんな記事も書いています。よろしければ読んでみてください。
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