新渡戸稲造とキリスト教
新渡戸稲造
明治〜昭和初期の農業経済学者・教育家(1862〜1933年)
新渡戸稲造は、明治・大正期の教育家であり、国際連盟事務局次長としても活躍した人物で、旧五千円札の肖像ともなっているので、その顔にはたいてい見覚えがあるはずです。
新渡戸稲造は、札幌農学校の学生時代に、クラーク博士の影響のもとで、クリスチャンになりました。
クラーク博士の言葉「少年よ大志を抱け」(Boys, be ambitious)は有名ですが、本当はこの言葉は「少年よキリストにあって大志を抱け(Boys, be ambitious in Christ)」であり、本来は「キリストにあって」がついていたのだが、それを抜かした言葉が世間では有名になっていると言われています。
新渡戸稲造も、その言葉に従い、キリストにあって大志を抱いた人物です。
それは「われ太平洋の橋とならん」というものでした。
彼は日米を結び、また世界を結ぶ架け橋となろうと努力したのでした。
若くしてアメリカに渡った彼は、そこでクウェーカー派の信仰にふれ、熱心なクウェーカー派クリスチャンとなったのでした。
また、アメリカ人女性メリー・エルキントンを妻としました。今でこそ国際結婚は多くなりましたが、当時は白色人種と黄色人種の結婚など、ほとんど考えられない時代でした。
その後、日本に帰って札幌農学校教授、台湾総督府技師、京都大学教授、第一高等学校校長、東京大学教授、東京女子大学長、を歴任しました。
彼は日曜日には自宅を解放して、英語の聖書の講読、そのあと茶菓を出して座談を楽しみ、広い書斎兼客間が、聴講生であふれたと言います。
また、妻の実家エルキントン家から送られてきた二千ドルの金を投じて、貧しい子どものための夜学校をつくり、自分もそこで教えました。
新渡戸稲造を世界的に有名にならしめたのは、英文で記した著書『武士道 日本人の魂』でした。
この本は世界的に大きな反響を呼び、ドイツ語、フランス語、ポーランド語、ノルウェー語、ハンガリー語、ロシア語、中国語にも訳されました。
アメリカの第二六代大統領セオドア・ルーズベルトは、『武士道』を読んで非常な感銘を受け、数十冊もまとめて買って自分の子どもや友人にすすめ、さらに海軍兵学校や陸軍士官学校の生徒たちにも読むように勧めそうです。
第一次世界大戦が終わった翌年の1919年、パリの講和会議で、戦争を防ぐための機構として国際連盟を設置することが決議された時、その事務局には、事務総長のほかに事務次長数名が選ばれましたが、新渡戸稲造はその事務次長に選出されました。
当時の事務総長ドラモンド卿は、新渡戸稲造についてこう語っています。
「彼はただ演説がうまいだけでなく、深い感動を与える。その点で彼に及ぶものは、連盟事務局にだれもいない」。
新渡戸稲造は、その国際連盟の職を7年間務めました。
その後日本へ帰国しましたが、その頃の日本はしだいに国際的に孤立し、隣国への侵略の道を歩み始めていました。
1931年には満州事変が起こり、日本は国際連盟を脱退。戦争への道を歩んでいきました。
新渡戸はそうした中で、引き裂かれた国の間に何とか橋をかけようと奔走しました。けれども、もはや彼の雄弁をもってしても、事態を好転させることはできなくなっていました。
新渡戸稲造はこうして1933年に、72年間の生涯を閉じました。
新渡戸稲造は、札幌農学校時代のクラスメイト内村鑑三と同じく、「二つのJ」——JESUS(イエス)とJAPAN(日本)を愛した人物でした。
北大では新渡戸稲造にあやかって、世界で活躍する人材を作る「新渡戸カレッジ」が設立されています。彼の活躍が北大生の中でもっと知られるといいなぁとこの記事を読んで思いました。
岩手県は私の地元なので、出身が同じということで誇りに思います!
日本の先人の中にこのような人がいたことが誇らしく、心強くもあります。武士道を鑑みると、この方がそうであったように、私たち日本人は唯一の神様とその真理を受け入れる基盤を与えられているのだと感じますね。
二つの「J」を愛した。。。
かっこいいですね。僕もそうなりたいです!
新渡戸さん、五千円札ではもったいない、一万円札にしてほしかったくらいの働きをされた方なのですね!
私も新渡戸稲造を調べたことがありましたが、明治時代に世界と日本の架け橋となった偉大な人物だと思いました。
彼はクラーク博士に学び正しい考えを持つことで大きな働きをするようになりました。
誰に学ぶのか、そして正しい考えが本当に重要だと思いました☆