[放蕩息子のたとえ④]イエスが放蕩息子のたとえで伝えようとした神様の愛
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さて、放蕩の末に帰ってきた弟のために祝宴が開かれるようになりました。
そこへ畑から兄が帰ってきて家で何かが起きていることに気づきます。
:25)ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、
:26)ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。
兄が話を聞いてみると、放蕩の限りを尽くしてのこのこと帰ってきた弟のために宴会が行われているというではありませんか。
これに兄は怒ります。
『自分は何年も父のため、家のために真面目に生きてきたのに、自分のためには今まで何もしてくれなかった。それなのに女遊びなどで父からもらった財産を散財してきた不真面目な弟にはこんな宴会を開くのか。』と、ふてくされます。
:27)僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。
:28)兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、
:29)兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。
:30)それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。
そんな兄に父親は近寄って話かけます。
『あなたはいつも私と一緒にいたし、私のものはあなたのものだ。あなたの弟が死んでいたのに行き帰り、もう二度と会えないと思っていたのにこうして再会することができた。だから喜び祝うのは当たり前じゃないか。』と。
:31)すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。
:32)しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。
さて、この放蕩息子のたとえは私たちにどのようなメッセージを与えてくれるのだろうか。
まずこのたとえ話をイエス・キリストが語っている時のシチュエーションをもう一度思い出してみよう。
この放蕩息子のたとえはイエスの話を聞くために取税人や罪人が集まっていたところにパリサイ人や律法学者たちが「この男は罪人と一緒に食事をしている(とんでもないやつだ)」と言いがかりをつけてきた際に話されたたとえ話。
そう、このたとえ話はイエスがパリサイ人や律法学者を諌めるために語ったたとえ話だったのだ。
ここで父親は神様であり、兄はパリサイ人や律法学者のことである。
律法学者とは文字通り律法を研究するものたちのことであり、パリサイ人とはファリサイ派という律法を忠実に守っていた人たちのことである。
それでは放蕩息子である弟は誰なのか。
放蕩息子である弟はまさに取税人や罪人たちのことである。
律法学者やパリサイ人たちは取税人や罪人たちのことを神に背いた者たちとして忌み嫌いました。
しかし、イエスは放蕩息子のたとえ話を通してそのような者たちをも愛していらっしゃる神様の愛を伝えます。
そして罪を犯したものたちが本心に立ち返って神様のもとに帰ってきたのであれば、神様の愛で温かく迎えるべきであることを諭そうとしたのでした。
聖書をこのように深く読んでいくと本当に神様の愛やキリストの愛を感じざるを得ません。
ということで、放蕩息子のたとえシリーズは今回で完結です。
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