人生の二つの道 〜心の中心〜
今日は私が通っている教会の礼拝で伝えられた御言葉を今日はご紹介したいと思います。
御言葉の主題はこちら。
「自分の前には「二つの道」がある。しかし、神様の御心どおりにすれば「一つの道」だけだ。」
今回は要点をわかりやすくお伝えできたらと思います。
二つの道を同時に行くことはできない
人は二つの道を同時に行くことはできません。
だから、一つの道を行くためには、もう一つの道は諦めなければなりません。
東に行くためには、西は諦めなければならないのです。
簡単なたとえで說明してみたいと思います。
とっても甘くて美味しいケーキとダイエット、このどちらも選択することはできません。
ケーキを食べたければダイエットは諦めなければならないだろうし、ダイエットしたければケーキは諦めなければなりません。
心の中心
さて、ここで聖書を見てみたいと思います。
:24)だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。
イエス様はこのように語られました。
神と富とに兼ね仕えることはできないと。
たまにこの聖書の御言葉を誤解されている方がいらっしゃるようですが、これはお金を稼ぐなというような教えではありません。
もう少し前の部分から読んでみるとよりこの言葉の真意が分かると思います。
:16)また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
:17)あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
:18)それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。
:19)あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
:20)むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
:21)あなたの宝のある所には、心もあるからである。
:22)目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。
:23)しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。
:24)だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。
これは心の中心がどこにあるのかという話です。
自分の心の中心が神様にあるのか、それともお金にあるのか、自分自身にあるのか。
それが重要だとイエス様はおっしゃったのです。
旧約聖書のサムエル記上16章7節でもこのように書かれています。
:07)しかし主はサムエルに言われた、「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」。
神様は心を見る神様です。
神様が願われる道と自分が願う道
さて、話を戻したいと思います。
人は二つの道を行くことはできません。
その二つの道とは、信仰的に見れば神様が願われる道と自分が願う道です。
人はそのどちらも選択することはできません。
では私たちはどちらの道を歩めば良いのでしょうか。
最善の選択、それは神様が願われる道を歩むことです。
なぜでしょうか。それには深い理由があります。
人間の視野というものはあまりにも狭く、視点はあまりにも低いものです。もちろん、知識と経験を積むことでその視野・視点は広く、そして高くなることでしょう。
しかし、どれだけの知識と経験を身につけたとしても全能である神様に敵うでしょうか。
神様は過去から現在、そして未来まですべてを見据えて考えられます。
それを考えた時にどちらを選ぶべきなのかは明白ではないでしょうか。
では、神様の願う道とはどのような道なのでしょうか。
それはまさに聖書に答えがあります。
聖書の御言葉を学ぶことで神様の意向、神様の考え、神様の願う道を知ることができます。
私も、もっと神様の御言葉を学んで、神様の願われる道だけを歩む人生に挑戦したいと思います。
二つの道だったり、時には複数の道が見える時があります。
それは、自分の側に考えが偏っている時です。
天の願う道一つ。
しっかりと見極めて、正しい道を歩んでいきます!